双極性障害です。うつ期の時に湧いてくる希死念慮について話してみます。
これについては、その時の気持ちを正しく表現は難しいです。寛解の状態にある今の自分にとって、あの時期、辛くはあったのですが、どのようなつらかったのか、何を考えて、何を感じていたのか,よく思い出せません。というか、想像ができない。なんだか別の人みたいな気がします。
ということで、今の私が考えるあの時の自分の感じていたさまを書きますが、少し第三者的です。
希死念慮に至る感覚
確か芥川龍之介だったか、「ぼんやりとした不安」から自死に至ったようなことを読んだことがあります。
彼が「うつ」だったかどうかはわかりません。インテリは死に憧れるもんだ・・・のような時代でもあったのだと思います。「ぼんやりとした不安」といかにも文学的に語られると”死”への憧れみたいなものを感じてしまいます。
うつ期に持ち上がってくるの希死念慮は”ぼんやり”としていて、何か理由やきっかけがあるのでもなく日々の生活の中に自死が当たり前にあるように、するりとあちらにズレて入り込むような感覚に近いと思います。
単純に”ぼんやり”とした何かから単純に逃げ出したかっただけ、あるいはそこからちょっと移動したかっただけなのでしょう。
散歩に行ったり、買い物に行ったり、自分の過去を振り返ったり、できる範囲の日常行動をして、色々と気持ちが動きますが、その気持ちが動く方向の一つが”死”だっただけ。
マンションのエレベーターが故障して非常階段を登っている時、電車のホームで電車が入ってくるところを眺めている時、散歩の途中で川が流れているのを眺めている時・・・
音が鳴っている環境なのだが音が聞こえない、見えてるのだが何も見ていない、寒いのだか暑いのだか、なんだか五感が麻痺しているような。
その時頭の中がどのようなことを考えているのか・・・今はどうしても思い出せません。
今となっては本当に怖いのですが、その時は”怖い”とかの感情もなかったような。
あの時するりとあちらに行ってしまったら、後悔するのだろうか。(あの世に行ってしまっているので”後悔”も何もないのですが)
どうやって希死念慮から逃れられるか
「気持ちいいかどうか」「楽かどうか」など情緒的な判断だと、このような選択もあったのかもしれないですが、「正しいかどうか」という論理的・倫理的な判断だと明らかに間違っています。結局、私が自死に至らなかったのも「これは間違っている」と心のどこかに常に残っていて、それを考える余裕の一瞬があったからだと思います。
◆今の苦しさは本当に死ぬより辛いのか?
死ぬのは痛いぞ!苦しいぞ!死後の世界があるとしたら今より辛いぞ!本当に死んだほうがマシか?と思ってみたいものです。”死”へのハードルは少しは上がります。それを考える少しの余裕。
◆自分が死ぬことで果たせない責任の大きさを考える
死ぬことで自分は勝手に死ねばいいですが、自分の周りにいる人のことを考える余裕があればいいのですが。
仕事の責任などは大したことない、代わりなんていくらでもいるが、家族はどうでしょう。多少なりとも誰かのために生きてきたはず。妻と一緒になった時添い遂げる覚悟はあったはず。少なくとも子供達が自立するまでやるべきことがあるのではないか?それを投げ出せるのか?
家族がいなくても何か知らに関わって生きています。それを思い起こす余裕が欲しいところです。
◆これから本当に辛いだけか?
食事をしたら空腹は免れた。水を飲んで喉の渇きは解消された。扇風機をつけたら汗がひいた。
実は些細なことで”いいこと”も起こっているもの。何かしらの恩恵を受けている。
今日は、明日はもう少し何かいいことが起こるかもしれないと、と考えてみませんか?
ほんの少しだけ考える余裕があれば・・・
◆誰かと話しできませんか?
1人でいるのではなく、誰かとお話しする機会を作れませんか?
悩んでいることについてだけではなく、たわいのない話でもいいです。誰かとおしゃべりをするチャンスはないでしょうか。SNSやチャットなどでもいいと思います。
会話は鏡にような一面もあります。自分のことを口に出して話すことで一旦自分から外ます。それを客観的に第三者的に見つめ直すことができます。鏡に映った自分の姿を見て自分と向き合えます。
きっと気づきがありますし、それによってふとあちらに行ってしまうような流れに乗らずに済むことにもつながります。一瞬の余裕を与えてくれます。
◇ほんの少しの余裕
実際はどんな思考の流れがあったのか思い出せません。ふわっと来てふわっと去っていったようなものかもしれません。
しかし、洗濯物を干すときに天気を気にするように、お酒を飲む量を次の日の仕事を考えて控えるように、車の運転を始める前にガソリンの残量を確認するように、行動や気持ちには本能的に頭をよぎることがあります。
それと同じように死んでしまおうかと思うときにふと考える余裕があったのだと思います。
双極性障害だからこその”死”がすぐ隣にいる危険性
双極性障害の場合は、うつ病の時の”ぼんやり”とした希死念慮と違いもっと具体的で危険な希死念慮が起きます。
躁状態の時にやってしまった失敗ややり過ぎてしまった行動をくどくどと考えて強い自己否定状態に陥ります。自分の存在を消してしまいたい。逃げ出したい。という気持ちが大変強いです。
行動力が著しく乏しい泥状態の時は動けないのでまだ”超えて”しまうことは少ないのかもしれません。
躁とうつの「混合状態」になってしまう方がいらっしゃるようです。気分はうつで行動は躁状態。この時に希死念慮が出てくると大変危険なようです。衝動的に”超えて”しまう。
自分にもこのようなことが起こりかねないと思っています。その時にブレーキをかける余裕が作れるのか・・・不安です。
常々、”死”についての”ぼんやりとした”憧れとともに、このような危険がすぐ横にあるようです。
今は、何よりも上がり過ぎず下がり過ぎず「気分」「思考」「行動」の安定をしっかり保つようにすることが肝要。
それとこういうことも起こりうると事前に知っておくことが大切だと思います。
コメント