双極性障害あるある この障害には原因はあるのか

躁うつ的生活

双極性障害は脳の病気

双極性障害は心の病気ではなく脳の病気です。

以前、躁うつ病の亡くなった方の脳を調べてみても異常が見つけらられなかったため、心の病気だと言われていました。症状が行動や言動に現れてくるので心の病気であろうと思われていたのでしょう。

ただ、近年の研究で脳の中でも感情のコントロールに関わる部分(前頭葉の一部である左右の背外側前頭前皮質と前帯状皮質という部位)が小さくなっていると報告され、今は脳の病気であることが明らかになっています。

つまり、双極性障害の原因は脳内の情報伝達の乱れにあると考えられています。躁状態やうつ状態に伴ってドーパミンの量が大きく変化している。

ドーパミンとは「快感や多幸感を得る」、「意欲を作ったり感じたりする」、「運動調節に関連する」といった機能を担う脳内ホルモンのひとつです。

躁状態というのは、このドーパミンが異常に放出されてしまっている状態。一方、うつ状態はドーパミンが減ってしまい、まったく快楽を感じることができない状態になってしまっている。

誰でもある程度のドーパミンの増減は起こるようですが、双極性障害の場合はその変化の揺れはばが大きいということのようです。

変化の揺れ幅”乱れ”によって躁とうつに変転するので、きっかけなく躁転したりうつ転したりする可能性があります。

また、脳の一部の部位が小さいということは将来的はMRI検査などで客観的に診断することが可能になると思われます。私も含め多くの双極性障害者が、当初うつ病と診断され何年も適切な治療が受けれていない状態が、検査により早いうちに明確に判断できるようになるでしょう。

遺伝に関わるのか?

双極性障害は遺伝病ではないということです。「親戚に1人も同じ病気の人はいません」、という人が大多数です。

しかし、一卵性双生児のように、まったく同じゲノム(遺伝子の1セット)をもっていると、多くの場合、2人とも発症してしまうことから、遺伝子が何らかの関係をしていることでもあるようです。

これまでの研究でみつかった遺伝子は、どれもほんのわずかな影響しかなく、双極性障害の原因遺伝子と呼べるものはみつかっていません。おそらくは、たくさんの弱い効果をもつ遺伝子の組み合わせで、発症しやすくなったり、しにくくなったりするのだと考えられます。

遺伝子による影響は少ないとはいえ、病気になりやすい体質(ストレスへの耐性、ストレスへの敏感さ、弱さなど)には遺伝的な側面もあるのではと言われています。

症状が出る(躁転、うつ転)きっかけ

原因が脳の病気であるなら、きっかけなく躁転、うつ転する可能性があります。双極性障害の当事者の方の話でも突然変転したとの話をよくきます。

ですが、私の場合うつ期に陥るときには予兆、きっかけがあるように感じています。

うつ病と同じようにストレスがきっかけと感じていますが、仕事でのプレッシャーが大きく、心が軋んでくると気がついたらうつ転しているということが多いです。

(うつ転しているから仕事のプレッシャーを感じやすくなっているかもしれませんが・・・)

こういう時に起こることが多いので、うつ病と似ているので正確な診断が遅れたのかもしれません。

表面上は大きなプレッシャーを感じて逃げているように見えると思います。仕事へのモチベーションが起きらかに落ちていくのでサボっているのとあまり違いはありません。ですが本人は頭も体も心も動かなくなってしまっています。

一方で、躁転は鬱の底を脱したなと思ったら確実に起こっているようです。

正確には「起こっている」ことを後で感じます。うつ期が終わったら躁転していたと後で自覚します。私の場合、躁の時期にいるとの自覚はあまりありません。後で考えてみるとあの時躁転していたのだなと思う程度です。

このように私の感覚では、突然躁転・うつ転しているような感覚は少ないです。

原因を考えることに意味があるのか。

原因について記載してきましたが、双極性障害の当事者として原因を考えることに果たして意味があるのでしょうか?

双極性障害は治らないものと聞いています。

ということは発症の”原因”があったところで、その「原因は取り除けない」ということです。

予防もできず発症する前に対処する方法がないということでもあります。

だったら当事者にとって知ったところで何のメリットもない。知ったところでやっぱり治ることはないんだなと暗い気持ちで確認するしかない。

原因を探ったところで意味があるのでしょうか。

医師の方からすると正確な診断をするために正しく原因を把握しておくことは必要でしょう。

自分の障害を理解することは、「いずれは必ずあのうつ期がくるのかと覚悟を決める」「治らないなら治らないなりの心の持ちように工夫する」「子供への影響がないことへの安心感を得る」「精神的な努力でどうにかなるものではないとの理解」などの意味で必要だったのかもしれません。

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