コロナ禍でのオリンピックでどうなの?きっと見ないだろうな・・と思っていながら、結局は選手の打ち込む姿に魅入られてしまって、誰それがメダルを取っただの、期待のあの選手は残念な記録に終わっただの、人並みに単純ににのめり込んで感動してしまっていました。
パラリンピックも、障がいを持ちながら、そのマイナス面も持ちながら精一杯頑張っている人、掲げた大きな目標をなし得た人を見るのは勇気をもらいます。
双極性障害と言われながら、それを理由に大したこともできずに悶々としている、ひねくれねじれた私にとっては、”勇気をもらう”方向ではなく、自己否定につながってしまうだろうなと怖がって見ないだろうな。と思っていたのですが・・
テレビをつけるとどうしても目に入る。選手の姿を見ていると、震えるほど感動して涙が出てきます。
どうしようもない私には、彼ら・彼女らが、どれだけの経験と苦しみと辛さを味わい、それに打ち勝つあるいは取り込んでしまうほどに広い精神力を持って、どれだけ厳しい努力をしてきて、あそこに立っているのかを拙い想像力で思うだけでも、それに最大限の敬意を払います。想像をはるかに超える超絶な経験をしてきたのだろうと思います。
そしてその場で、自分の限界を越えるべく、その一瞬に全てをかけチャレンジする。そんな姿を拝見させていただき、こんなに感動させていただいて、心の底からありがとうと言いたいです。
コロナ禍で開催に賛否両論はあったのだろうが、参加されている方たちの姿を見ていると、パラリンピックを開催できたことは、本当に良かったんだろうなと思う。
だが。・・何かが引っかかる。
実況の合間にスタジオなどにカメラが戻り、タレントや芸人、元オリンピック選手などが感想を述べている時、パラリンピック選手の練習風景をドラマチックに差し込んだ企業CMが流れている時、自国の選手が獲得したメダルの数を自慢しているニュース番組を見ている時、・・・何か引っかかる。
- 選手には「国のため」とか「応援してくれる人(金銭的、精神的)のため」とかではなく、壮絶な努力をしてきた自分のために頑張って欲しいのですが・・・
- 障がいの重さ別にクラス分けして競技しているが、それは本当に公平なのでしょうか。そのクラスの線引きの基準は当事者の障がいの再確認となり辛い部分を見せつけることにならないですか。
- それを正しく公平にできたとして、そもそも順位をつけることに意味があるのでしょうか。全員にメダルの価値のある偉業のはず。
- パラリンピックに出られない多くの障がいを持っている方々には目が向けられないままで終わるのでしょうか。
- このような方法で自己アピールできる障がいを持った方以外の方は、色々と思いを持ったまま生き続けねばならないのでしょうか。
- 障がいと言っても精神障害や知的障害の方々にはパラリンピックのようなチャンスを与えられる場所はあるのでしょうか。
- 障がいを持った方々が、スポーツできる環境とは、残念ながら各国のインフラやお金持ち度などで違ってしまってはいないでしょうか。
- 選手の能力以外の義足などの補完器具の性能で差がついたりしていないでしょうか。国や自治体の援助、スポンサーの有無などで差がついたりしていないですか。
- 大会の目的は「大会を通じ共生社会の実現を促進することを目指し」ているらしいが、何と何の”共生社会”なのか。この方法が共生社会の実現を目指す方法として正しいのか。
どうも引っかかっています。
各種メディア・マスコミ・関連企業などの”お金”の匂いが、選手たちの頑張り、努力、戦いの崇高さを汚してしているように感じる。なぜだろう。
選手たちのがんばりを金儲けに利用している人たちはいないか。CM、スポーツ中継、企業イメージアップ、地域イメージアップなどに利用されていないか。障害を持つ選手の方もそういうビジネスに利用されないとやりたい競技を続けられない環境にないか。・・・
多かれ少なかれスポーツビジネスというのはこういう側面があります。スポーツビジネスと違うところにオリンピックがあると思っているので、引っ掛かりが出てくるのかもしれません。
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