私の法隆寺巡礼〜私的に思うこと

仏像

法隆寺にきた!

先日、何年かぶりに法隆寺に行ってきました。関西に行った時にはそのついでに行きたいところはいくつかあり優先順位をつけたりするのですが、法隆寺がいつも優先順位が一番なので、出向くのは多くなります。

今回は1時間半ほどしか時間がなく、回って東院の夢殿まではなんとか回れたのですが、中宮寺まではいけませんでした。16:30にしまってしまうとは迂闊でした。半跏思惟像の柔らかなご表情を見れなくて心残りです。

まずは西院伽藍へ・・・

駐車場に車を止めて南大門を潜ると正面に西院伽藍が見えます。

中央に中門が見えますが、これが威厳がありすぎるのかどこか人を拒むような雰囲気があります。他のお寺の門のように中央の入り口がある奇数間の門ではなく、桁行四間で中央に柱になっている変わった形状。「どうぞお通りください」との形状じゃないように感じます。左右の金剛力士像も「境内に入る覚悟があるや!」と言わんばかり。

で、実際にこの門は通れません。拝観料を払って西院伽藍に入る入り口は左の別のところです。

中に入るといつも思いますが、この西院伽藍に中は雑草ひとつなくよく整えられていて気持ちがいいです。身が引き締まるような静謐な感じ。

法隆寺の持つ”結界”感のついて勝手に考察

同時に背中がざわつくようなこの感じは神社に行った時に感じる”気””結界”と同じようなもの。私は神社に行くとよく感じるのですが寺院ではあまり感じることがありません。ですが、この寺は例外です。なぜか”結界の中”に閉じ込められたような気がします。

そもそも法隆寺は1400年もそこにあり続けた稀有な寺院です。大寺院はたいていは「〇〇宗」との看板を背負い時の権力と一緒になり大きくなって、権力者が変わってしまうと衰退せざるを得ないもの。

比叡山も焼き討ちされたし、本願寺も戦国時代末期に大きく形を変えました。藤原氏の氏寺興福寺も当時の規模からを到底思い浮かべられないほど小さくなっています。法隆寺は7世紀から残っているなんて・・・

法隆寺は聖徳宗総本山となっています。寺側も時の権力とつながらず他のどの宗派にも組せず独立していたから、衰退することはなかったのだと思います。

また、聖徳太子は天皇家にごく近い血筋。さすがにその寺には時の権力者も手は出せないでしょう。聖徳太子の家系が絶えてなおかつ時々の政権がここを蔑ろにしなかっった。

天皇家はそもそも神道で日本全国の神社の総元締めですので、過去の天皇などは神社や御陵に祀られています。聖徳太子は仏教を日本に輸入したした人ですのでお寺に祀られて(祀られて・・出合ってるだろうか?)いる特殊な例です。天皇でもないのに後世に語り継がれるほどの権力を持っていた・・・天皇家からすると異端の人だったのでしょう。

当時の新興宗教”仏教”を活用し日本らしい政治体制を整えた天才(常識を覆したといえば”異端”)であるから、周りは畏れ多く近寄りがたく思っていたことは想像できます。超常的な逸話が多いのもそこらへんの事情があったのだと思います。

次の世代の山背大兄王が一族郎党自害に追い込まれ上宮王家が絶えてしまうことは、さぞや無念だったでしょうし、勢いで死に追いやった時の権力者などもその損失を悔やんだでしょう。

蘇我氏も死に追いやってしまった悔いと悲しみもあったでしょうし、祟られるのではないかとの恐れも抱いたかもしれません。聖徳太子を神格化し十二分にお参りすることで御霊をお慰めしたのではないでしょうか。

法隆寺の西院伽藍は聖徳太子の霊を封印する結界ではないかとの説もありますが、あながち間違いではないように思います。この”結界”感がそれを表しているように思えます。中門も出るなと言わんばかりの形をしていますしね。

金堂・五重塔の荘厳さ

何はともあれ、西院伽藍です。有名すぎる建造物だらけ。日本最古の五重塔、金堂・回廊全てが1400年前の当時の姿のままそこにある奇跡のような場所です。

五重塔

どれだけの時代のどれだけの人がこの五重塔を仰ぎ見たことか。で、きっとその人たちをと同じように私もここで感銘を受けている。いろんな時代のいろんな人と会話しているようなとても素敵な瞬間です。

この五重塔の完璧なバランス感覚は驚きです。屋根の傾斜、各層の屋根の大きさのバランス、屋根と屋根の距離、大きく重い屋根を支える大きな大きな雲斗雲肘木、ちょっとエキゾチックな卍崩し、初段の内部の四面の塑像群・・・見るとこ満載の塔です。隣の金堂と合わせ、何時間も眺めていられます。

完璧なデザインと思うのですが、初階層の裳階部分はいただけません。造作としてノイズに感じます。風雨避けに作られたものなので仕方ないのですが、取っ払った姿が見てみたいものです。

金堂

隣の金堂も屋根のバランスが素晴らしいです。こちらは五重塔と同じように風雨避けの裳階が邪魔な気がします。それと2層目の屋根を支えているのか四方に柱が立っています。この龍の装飾のついた柱、これもデザイン的にはノイズですね。あの大屋根を支えるのは大きな肘木では足りなかったのでしょうか。

金堂の中にはこれも超有名な釈迦三尊像があります。正面からの視線にこだわっっているのか平面的な造作。のちの時代の仏像と比較すると造作的・技術的には少し稚拙に見えます。教科書にも必ず出てくる歴史的には大変重要な仏像群ですが、個人的には少し物足りなさを感じます。

四隅の四天王像も独特です。のちの時代の勇ましく猛々しい姿とは全く違い、憤怒の表情はしているもののその立ち姿も踏みつけている邪鬼も少しユーモラスな造形です。写実的に作った方が悪霊退散の効果は高い気がしますが、この時代の四天王のイメージだったのかどうか。トーテムポールや南の国の部族の魔除けの面のような不気味さという面ではこちらの方が恐ろしげです。

西院伽藍の回廊

五重塔・近藤を中心にぐるりと囲んでいる回廊も見所です。屋根を支える梁も柱も太く大きな木で組まれていて重厚な感じがします。菱形の木を組み込んだ格子も手がこんでいます。

ギリシャのパルテノン神殿でも有名な形状、エンタシスの柱。これも教科書に出てくるほど有名です。堅牢に作るために必要な構造だったのでしょうか?これだけの数の柱を同じ太さで同じ曲線に削るのはなかなかの技術が必要だったと思います。

柱を近くで見るとたくさんのところに補修の跡が見えます。風雨や虫など痛むことも多いのでしょう。お寺を守り続けた人々の愛情・信仰の強さが感じられます。

東院伽藍へ

西院伽藍を抜けて東院伽藍に向かいます。途中の東大門も渋い建築です。夢殿見たさにすっと通り過ぎてしまうんですが・・・

東院伽藍に行くと夢殿を見て奥の中宮寺の半跏思惟像を見ていくのがパターンなのですが、今回は時間切れ。

この東院伽藍の重要建築物、絵殿、舎利殿、伝法堂など見て周ります。

夕日の中に夢殿が見れました。

この夢殿。モダンな姿しています。現在のセンスでも十分通ります。

しかし、八角形とは当時設計して作るのは難しかったと思います。難しい角度で作り込むために部材を用意するのも大変だったでしょう。3D-CADもなかった時代にこの造形・・・この頃の宮大工の技術の高さが窺い知れます。

この中には、有名な救世観音像があります。フェノロサにひん剥かれたお方です。明治の新しい世の中になったとはいえひどいことをします。他の国の宗教を蹂躙した許せない行為です。

無茶苦茶します。当時の日本人からするとそれでも許してしまうほど新しい時代に価値観に慣れようとしていたのか?

ですが、おかげで貴重な仏像が皆の見れるようになったとはいえ、宗教的には直接拝んではならないものです。今は年に2回ご開帳があるようです。下世話な気持ちで大変失礼ながら機会が合えば見てみたいです。

その他

このお寺で一番お会いしたいのは百済観音です。宝蔵殿にいます。数年前にこの方のお堂ができました。西院伽藍から東院伽藍まで行く間にあります。

法隆寺に来たときは他を全く見る時間はなくとも百済観音だけは必ずみます。しっかりお会いできました。これだけでも充分満足です。私の人生を変えた仏像です。この話は別途・・・

とにかく短い時間での訪問でしたが、毎度来てよかったと思います。今は闘病中でもありなかなか遠路は難しいところもありますが、ここまで来れたことを自信としてしっかり養生します。

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