オーディオ評論家という方々がいらっしゃいます。この素敵で文化的な貢献度の高い職業がなくなりつつあるのではないかと危惧しています。
”いい音”で音楽は楽しみたいけど、”いい音”とは?
今や、本格的なオーディオセットで”いい音”で音楽を聴くことがなくなっています。
昔は大きなスピーカーとレコードプレーヤー、アンプを置いて、音楽を聴くという文化があったような気がしますが、今では裕福なよっぽどのマニアの方に限られるのではないでしょうか。
“ちゃんとした音”と出会う機会がそもそも減っています。音源もCDなどのパッケージ音源が減ってきて、配信モノばかりです。お金を出して、お目当てのミュージシャン、お目当てのライブやコンサートの音源をカタチ(CDパッケージなど)で手元に”所有”してじっくり楽しむということが減っています。
大きなスピーカーを鳴らして聴くこともなくなり、もっぱらヘッドホン・イヤーホンです。構えて音楽を聴くというよりも何かをしながらの「ながら聴き」で、BGM的な聴き方が多いです。
学校での音楽の授業では、ベートーベンやモーツァルトなどの曲をCDラジカセのようなもので聞かせると聞いたことがあります。子供の頃のこのような貧しい音楽体験でいい耳が育つとは思えません。
本格的ないい音で聴く体験をしないで育った耳は、そもそも良い音を感じる感覚がなく、イヤホンからのドンシャリの薄っぺらい音をいい音と思っている節があります。
”いい音”を聴く文化が衰退している
音楽を聴く文化が廃れています。オーケストラやコンサートホールが身近にあり、手軽に生で音楽を聴ける環境のあるヨーロッパの国々は羨ましいです。
ライブに行って大音量で音楽を楽しんでいる人は、まだマシでしょうが、それでも大音量と過度の低音、極端に歪ませた音は体に耳にいいようには思えません。
オーディオ商品の市場も大きく縮小してしまってます。専業メーカーも減ってしまって、なくなってしまったり、他の企業に吸収されたりしてます。残ってるメーカーは業態を変えたり、流行に左右されない超マニア向けの職人企業だったりします。
このような環境ですが、なんとか聴ける環境文化が育ってくれればと思います。
ある程度の音で聴きたくても、機器の値段が高すぎたり場所の制約が大きかったり、あまりに敷居が高くなってしまってます。
味わえないまま、私の寿命が尽きてしまうかも…
オーディオ文化啓蒙のための評論家
良い音の聴ける環境を増やすためにもオーディオ文化の啓蒙が大切。
音楽の魅力を伝える方法としては、実際に聴く機会を作るのが一番ですが、それが叶う環境がほとんどありません。”音”を聴かせるために”音”の前に連れてくるための”言葉””プロモーション”が必要です。
オーディオ評論家という方々がいます。この方々のおかげでオーディオファンになった方、よりその世界にはまってしまった方も多いと思います。
音楽を文章で表現する仕事。音を聴く能力と感性はもちろん必要ですが、かなりの文章表現力、かなりの想像力が必要です。
オーディオ評論家のすごいところ
評論家と一言で言っても、美術や書籍などの文化関連や経済や政治といった、ものの目から入ってくる情報ベースの評論とは違い、耳から入ってくるだけの情報である”音”を文章で伝えることには特殊な技量が必要です。
目で見たものは、赤なら赤、四角なら四角と比較的共有しやすいですが、”音”はまず共有することから始めねばなりません。それも言葉でやるしかないわけです。高度な文章表現力が必要です。
オーディオ評論家の方々が使う音を表現する言葉には、次のようなものがあります。
「温かい⇄冷たい」「明るい⇆暗い」「柔らかい⇆固い」「軽い⇆重い」「力強い⇆繊細な」・・・これぐらいの形容詞は説明なくともなんとなく伝わります。音の感覚を肌の感覚の表現で伝えるのはわかりやすいです。
ですが、次にような言葉はどうでしょう。
「タイトな、 締まった」「ぼやける」「まったり」「がっちり」「しっとり」「きめ細やかな」・・・ここら当たりになってくると一般人の私たちにとって少し怪しくなります。評論家が言っている”まったり”と私が感じる”まったり”は同じものなの?「締まった」というのは「硬い」と違うの?・・・
さらに「フラット」「ドンシャリ」「サ行が刺さる」「シャリつく」「聴き疲れ」「鳴らしきる」「粒立ち」「粒が揃う」「粒が細かい」「かまぼこ」「ブーミー」「音の立ち上がり」「音の解像度」「音場」「音像」「音の重心」・・・もう、よくわかりません。ヨコに評論家の方についていてもらって実際にお音を聞きながら解説してもらわなければ理解できないでしょう。
ですが、このような詩人のような高度なテクニックを駆使して、音の楽しさ、音楽の豊かさ、本物の音の素晴らしさを的確に文章で表現しようとの試み。オーディオ文化そのものです。それをなすオーディオ評論家の技量には感心させられます。
オーディオ評論家の活躍の場が・・・
オーディオ評論家は主にオーディオ専門誌を活動の場にされています。ステレオなどでオーディオを聴く文化が廃れていくに従って、オーディオ専門誌の発行部数が伸び並んだり、廃刊してしまったりで、評論家の活躍の場が狭まっています。
活躍の場が減ってきていますので、新しい成り手が出てきません。人数が減り、高齢の方の割合が高くなっています。皆ご年配になってしまわれて、ますます”重鎮”感が高まって、文学的な少し難しい評論の表現がより高尚に聞こえ、それはそれで読んでて楽しいのですが、さらに敷居が高くなってしまう弊害もあるでしょう。
評論家の方も食っていくために、デジタルオーディオ機器やテレビやプロジェクターなどの映像機器など対象分野を広げているようです。さらに映像制作機器や映像作品についても語るような方もいるようです。ゲームやネット配信、VRやARなど映像分野はどんどん広がっていますのでこちらへ広げて行かれるのは当然の流れでしょう。
そしてますます、ピュア・オーディオの楽しみを啓蒙する人が減っていきます。
オーディオ評論家の先生に期待していること(精神疾患にとって)
おじいさまになってしまわれたオーディオ評論家の先生方!高みにいて美しい詩を読んで余生をお暮らしになるのはまだ早いです。私どものところに降りてきていただけませんか?
ピュアオーディオを体験するチャンスがありさえすればそして先生方に”伝える言葉”を教え継承していただければきっと皆が心豊かになります。
音楽含め芸術のちからって大きいと思います。特に精神を病んでしまった私どもにとって縋りたいものの一つです。
〇〇セラピーというのは少し怪しい感じはしますが、何にでも縋りたい私どもにとっては効果を期待してしまいます。体力・気力とお金がうまく伴わないだけです。
精神が病んでしまった人にもし効果があるなら、一般の人にとってはとてつもない感動が味わえるはずです。
そういう意味からも、オーディオ評論家の先生には大いに期待してしまっています。きっかけを作ってください。
”オーディオ・セラピスト”になってくださいとは言いませんが・・・
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