山を彩る紅葉(もみじ)
紅葉の季節。”紅葉”との文字の如く、紅色に映える紅葉(もみじ)が紅葉(こうよう)の一番象徴の色でしょう。
山の中の紅葉色は他の群れた木々や岩や土などの混沌とした色に中にくっきりと現れる。複雑な色彩の群れの中にくっきりと目立つ輝く赤は、日本の秋の色という趣です。
植物の名前としては楓(かえで)ですが、紅葉(もみじ)とも言いますよね。枯葉になる前の葉の色がそのまま木の名前となっています。赤い時期はほんの少しなのにそう呼ばれるのは、その色がこの木を象徴しているからでしょう。
紅色になる仕組み
赤色はアントシアニンの色。気温が下がって日光が減って光合成の効率が悪くなると葉を切り離す準備が始まります。
養分を幹の方に取り込んでしまうと葉っぱの根元にコルク栓のように「離層」ができ、養分の流れをシャットアウト。葉っぱがだんだん枯れてくる。その過程で、アントシオニンが生成されて赤くなる。ということだそうです。
さらに枯れかたがもっっと進むと、アントシアニンか少なくなりタンニンが増えてきて茶褐色になり、落ち葉となっていく。
化学的に表すとこうなりますが、味も素っ気もない!野暮です!
黄葉(こうよう)といえばイチョウ
この時期、イチョウも美しいです。
イチョウはそんなに自然の山のなかにあるのではないようです。街路樹や寺社の境内、祠の横など人の手で植栽された場所に多いです。
化石の時代から生き延びてきた樹で、今は絶滅危惧種です。特徴のある”広葉”を持っているが広葉樹ではなく、裸子植物であるが針葉樹ではない。なんとも微妙な植物です。
日本には中国から1200年代ごろに伝わってきたとのこと。燃えにくいとの特徴などからか、神社や寺の境内に延焼防止に植えられたと聞きます。環境変化にも強いことで街路樹にも盛んに使われました。
イチョウの黄色は秋の抜けるような青空との組み合わせは、比類ない美しさ。
街路樹は、定期的に切り詰められるので大きく育つことは少ないですが、綺麗に並んで黄金色に染まった風景は見事です。街路に並んで沸騰したように黄色まみれの向こうに空色・・・感謝です。
雌株の近くは銀杏(ぎんなん)の匂いでちょっと・・・拾って炒って食べると美味しんですが。あの匂いが厳しいので、街路樹はめ雌株を避けて植えられるらしいです。
マメに切り詰められることのない寺社の境内には大銀杏があることがままあります。大木の下は金色の柔らかい絨毯のよう。寺社の枯れた色の建物と秋の青空、そして金色のイチョウの色合いが素晴らしいです
このイチョウの黄色は曇りのない完璧な黄色と思っています。和色の「鬱金色(うこんいろ)」に近いのでしょう。この季節の銀杏を見るたびに、世の中に他に黄色のものは他にないなと思わせます。
でも思い返してみると、タンポポ、菜の花、レモンの皮、ひまわり、玉子の黄身など黄色はたくさんあるのですが、それを忘れてしまうほどインパクトが強いという意味で完璧な黄色かと。
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に 与謝野晶子
銀杏黄葉(いちょうもみじ)。落葉が日が陰った街路を明るく照らしている、黄金色の絨毯。葉の形も可愛らしいです。
黄色に色づく仕組み
また野暮な話ですが、黄色に色づくのは、紅葉(もみじ)とはまた別の仕組みらしいです。
黄色はカロテノイドという色素成分。もともと緑の葉っぱの中に含まれていて、緑成分のクロロフィルの比率が高いため緑色に隠れている状態。
それが冬に向かうに連れ日照時間が減り光合成の効率が悪くなり切り離しの準備に入ると、クロロフィルの成分が少なくなってきて、カロテノイドの比率が高まり、黄色が優ってくるとのこと。
絶妙な比率配分が、あの美しさを生む。
紅葉(こうよう)を見て思うこと
植物の方は単純に身を守る行動を取っているだけ、人間どもにその姿を見てもらいたいからなど微塵も思っていない。なのに我々人間どもにこんな美しい姿、美しい風景を見せてくれるとは。
必死さが放つ神々しい美しさ。それと対比した自分の情けなさ。
必死に汗をかいて努力している人を人を、一つも努力しないでぼーっと眺めているみたいで申し訳なく感じます。働けるのに病気のせいだと言って働いていない自分のことです。
毎年のようにこのようなものが見れた幸せとそれを感じられる精神状態に感謝です。
余計なことは考えないで素直にこの季節の色を楽しみたいものです。
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