広隆寺 弥勒菩薩像・・・お慕い申しております

仏像

弥勒菩薩半跏思惟像

京都の西、太秦にある広隆寺。私にとってここの弥勒菩薩像は”推し”です。ファンです。アイドル仏です。恐れ多くも日本国の国宝第一号の仏像に軽率すぎるかもしれません。

ただ、この気持ちはありがたい宗教心とか高尚な芸術品とかに対するものではなく、もっと下世話なアイドルを追いかけるような感覚に似ています。この仏像を悪くいう人がいたら許しません。いないとは思いますが、

ファーストインプレッション

お会いした時にお姿が頭に焼き付いてしまって、きっと死ぬまで忘れることはないと思います。

初めてお会いしたのは、かれこれ35年ほど前でしょうか。広隆寺霊宝殿にいらっしゃったのですが、遠目に見ると光背はないのに光背を背負って浮いているような錯覚。惹きつけられます。

近くによるとなんともない坐高は84cmの小さな仏像です。近寄り難い威厳があるでもなく、恐れ多い佇まいがあるわけでもなく、”普通”の仏様”です。なのになぜこうも惹きつけるのか。その像そのものだけではなく、その周りの空間、空気を含めて漂う存在感。

台座の上に腰掛けて、左足をだらりと下げ、右足を左足の膝の上に乗せるいわゆる”半跏”の状態で座っています。上半身は少し前屈みで右手の中指の先を軽く頬に触れて何かを思い考えしているような姿勢です。その動作は極めて繊細で無駄がありません。

ほっそりとした体には力みなぎる勢いはないのですが、非人間的な冷たさはなく、全体に流れるような曲線で構成されていて、生き生きとした強さを中に秘めているよう。

かすかに微笑んでいるような表情は何をも包み込むような暖かさを感じます。

菩薩像は装飾品を見にまとう姿が多いですが、このかたは、ナチュラルでシンプル最低限の衣類を身に纏っており、頭に簡素な宝冠をかぶっています。

そのお姿に秘められたパワー

確かに木工品ではあるのですが、人工物のような気がしません。人が作り出したのではなく、あるべくしてあった。

釈迦の入滅から56億7万年後に如来になって現れて人々を救う・・・恐ろしく長尺な時を人々のために想いを巡らして思惟する姿。

私なんかは、大変失礼なことに宗教心もなく仏像を芸術品とか彫刻物とかとして見ていますが、仏像はそもそもお祈りする対象物です。

制作した人はそれでお金をもらうとか名を売るとかそんな下世話なことで作ることはないでしょう。全身全霊をかけて、全てを犠牲にしてでも、神仏の加護を借りて自分の魂を差し出してでも、死ぬ気で作り上げたはずです。

その凄まじい”気”がこもっているからこそ感動を与えるのだと思います。

先入観なくお会いしたい

7世紀ごろの制作とのこと。聖徳太子のあたりの時代です。のちの寄木づくりが主流となった大きなチームで行う国家的プロジェクトでの仏像づくりの時代よりはるか前ですので、ひとりの仏師が削り出したものなのでしょう。その人の思い、情熱、モチベーションを今もなお感じます。

国宝仏第一号。国宝とは超一級の重要文化財ということですから、宗教的にお祈りする対象としての視点ではなく造形物としての評価。評価されてから高々120年ほどの歴史です。ですが、お寺にあってお参りされてきたのは、実に1300年。流れた時間の差から言っても国宝だからといっても”なんぼもん”でしょうか。

木造仏はほとんどはクスノキを使いますが、この方は珍しくアカマツの一木造りです。その素材から大陸から渡ってきたのではないかとの説もあるようです。どこで誰が作ったのかよくわからないとのこと。

国宝だろうが大陸から伝わってきただろうがこの仏像の価値には全く関係ありません。、どうでもいいことです。この弥勒菩薩が”ある”ことに何の関係もありません。そんな先入観に関係なくこんなに惹きつけるのですから。

曇りないまなこで観たいものです

情報をインプットしてからこの弥勒菩薩像に会うとその情報が邪魔をします。曇りのない全くナチュラルな気持ちでお姿を拝見したいものです。無駄な情報、無駄な先入観を持たずに見る。これができれば世の中は素晴らしいものだらけなのでしょうね。

そこにあなたがいてくれるだけで、いてくれる場所が明らかになっていてさえすればそれでいいです。

こんなにお慕い申し上げているのですが、実はお会いしたのは過去に2回だけ。自分でも驚きますが2回だけです。

畏れ多くて、新たにお会いしたら今のこの満ち足りた思いが変化してしまうのではないかと不安になります。憧れて会うのを楽しみにすることでその”楽しみ”を楽しむという・・・もう、自分の気持ちもわかりません・・・

その姿を見て素直に感謝する気持ち

仏像というのは、眺めているうちにその美しさから拝みたくなってしまうのは何なのでしょうか。よく漫画やコントなどでお年寄りが仏様を見て「ありがたや〜」といって手を合わせる・・なんていうのが出てきますが、今度お会いできた時には、正直そのような気持ちになると思います。歳のせいでしょうか・・

美しいものに出会った時、感激するようなことを経験したとき、ただただありがたくて何かよくわからない”何か”に感謝してしまいます。誰でも多かれ少なかれ持っている感情だと思います。「ありがたやー」のおばあちゃまはそれを体で表現しているだけ。

人生長いようで短い。このような経験は数えるほどしかしていません。一つでも多く触れたいです。

躁状態でもうつ期でもこのようなことに気づく心の余裕はありません。少しでも長い時間「安定期」を作ることがそういう経験を増やすきっかけになるのでしょうね。

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躁うつ病の支離滅裂あるある雑記

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