私流のバードウォッチング
野鳥を観るようになってからだいぶ経ちます。何にでも支離滅裂に首を突っ込んで全て中途半端になる私なので、「野鳥観察」とか「バードウォッチング」とか本格的な言葉を使うのはおこがましいです。でも、趣味の欄にはちゃっかり「バードウォッチング」と書きます。
双眼鏡は車に積みっぱなしのリュックの中にいつも入っていて、ちょっと山の中を歩く時、里山を散策するとき、湖のようなところにドライブするとき、人里離れたの温泉に行く時など、ぶらぶら歩きながら鳥の気配を感じたら双眼鏡を引っ張り出してその姿を眺める。という楽しみ方です。
あと、うちの窓からも”ベランダバードウォッチ”を楽しんでいます。うちの周りにも色々いらっしゃいます。ヒヨドリ、メジロ、シジュウカラ、コガラ、ヒガラ、ウグイス、キジバト、もちろんスズメやツバメなど。ガビチョウもいます。キジも現れます。
田んぼや川の周りを散歩しているとアオサギ、ダイサギ、チュウサギ、タヒバリ、湖畔に行くと、各種カモやガン、ハクチョウ、カワセミなど、山に入ると、コルリやキビタキ、オオルリ、コガラ、などなど、この田舎暮らしは結構楽しめます。
歪んでしまった心にはいい薬になっていると思っています。
バードウォッチングの魅力
カワセミやオオルリなど見かけた時には、かなり嬉しい。でも、立派なカメラや大砲望遠鏡など持っていなので、写真の収めて誰かに自慢して喜びを共有することはできません。密かに楽しみます。山の中でひとりニヤけている姿を思うと不気味です。ひとりぼっちはちょっと寂しいです。

このような「鳥を観る」という趣味は、お金はかからないし、誰に迷惑もかけないし、人畜無害な趣味です。コート予約したり、入場料払ったり、道具を買い揃えたり、騒音で迷惑かけたり、仲間を集めるために苦労したり、ガソリンを撒き散らしたり、消耗品を捨てるようなゴミも出さず・・なんだか日頃色々な面で世間にご迷惑をおかけしている私にとっては、ちょうどいい感じの趣味なんじゃないでしょうか。
鳥の観察と自然環境
鳥を観れるということは、鳥が生息する環境が整っているということです。鳥を見ているのですが、自然環境全体を見ているということです。
私は、できる限り控えめに鳥を観るようにしていますが、バードウォッチャーの中には写真を撮って自慢したい気持ちが強くなると、少し困った行動をとってしまう方もいらっしゃいます。
何人ものグループになって大砲(望遠鏡)を担いで山に分け入り、踏み込んではいけないエリアに入って三脚を設置したり、鳥が餌をとるの写真を撮るために、小石で囲んだ水溜りを作って、餌を入れて誘き寄せたり、餌を撒いてカモやハクチョウなどを集めて写真を撮ったり、わざと音を立てて飛び立つ姿を狙ったり。
ちょっとこれではコンパニオンやレースクイーンを追っかけている人たちみたいで、”野鳥観察””バードウィオッチング”とは違うんじゃないかと思ったりします。そういうつもりならそれでいいですけどね。
そして環境問題まで考えてしまう
鳥を観るのは、本当に観るだけにして、彼らの生活を邪魔しないようにしたいです。こちらがそこにいて鳥を見ていることでさえ異常な(”自然”じゃない)のだから、せめて静かに気配を消して眺めさせてもらうようにしたいものです。
自然を見るには”自然”に見たいですね。あるがままに美しくて、あるがままに厳しいものに、”あるがまま”に触れるから、感動し、畏怖し、心が震えるんだと思っています。たった一握りのヒトという希少な種が、何かしらガサツな力で加工したら申し訳ない。
こんなことを思っていたら、考えが飛び始めるのですが・・
人が『自然保護」と言いながら”自然”に手を加えるのはどうなんですかね?本当の意味での保護になっているのでしょうか?
「〇〇自然公園」とかいって、綺麗な舗装路を作り、駐車場を作り、「ここに入るな」と言いながらコンクリート製の柵をお大きな重機を持ち込んで建設する。
「〇〇保護センター」とか言いながら、素敵なログハウス風の鉄筋コンクリートの建物を建てる。
田んぼを荒らす害鳥として駆除してきた鳥が絶滅危惧種になってしまったから、今度はその鳥の餌場となる場所を人工的に開拓し造成し、外来種の小魚を放流する。
自然に優しいエネルギーとして風力発電所を作るが、その風車で、多くの渡鳥が死んでいるってこと知っています?
ヒトがやっていることは、本当に自然を保護しているのでしょうかね?手を出せば出すほど拗れていってるような気がしてなりません。

じゃあ、どうすればいい?手を加えないと絶滅する動物が出てくるぞ。心ない人たちが、自然破壊を加速させるぞ。と言われるかもしれませんが、人の入らない場所を少しでも増やして、どこへでも傍若無人にヒトが入り込むのはやめて、自然の成り行きに任せる。放置する。というしかないように思います。
すでに生態系はヒトのおかげで狂ってしまっています。どうしようもない。今更取り繕う手段がありません。それも”自然”。狂ってしまったものがどう変わっていくのかも”自然”。それで、絶滅する種もあれば、増える種もあり、栄える種も、自ら滅びる種もある。山火事が起きようが、雪崩が起きようが、それも”自然”現象なのだから、焼け野原の後にもちゃんとそれに適した種が育つもの。たとえヒト住みにくい世界になってもそれも”自然”。その”自然”に順応した種が栄えるだけのこと。
行き着く先は、こうありたいな思います。ヒトはエゴでできていますから、絶対できないですけど・・
・・・無為自然というのでしょうか。 こんなことを考えていると、哲学的になってきますね。
今この瞬間に何の足しにもならない、こんなことを考えるっていうのは快感です。毎日のマイナスなことばかり考えているのを忘れられる。一種のストレス解消ですかね。
明日も、時間があったら、鳥の鳴き声に耳をそばだててみましょうか。
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